Wuppertal 留学日記

2013年10月から1年間、交換留学でドイツへ行く機会に恵まれました。体験談などを書き残していきたいと思います。

94日目(1月2日 木) バイバイデイとキリスト教の世界観

バイバイデイとキリスト教の世界観

思い出しながら日記を書くというのも若年性アルツハイマー対策としてアリなのではないでしょうか?(挨拶)

さて、明確な滞在日程を決めないままにMさんのもとに滞在させてもらっていたわけですが、タイトルの通りこの日にお別れすることにしました。お孫さんたちと息子さんがこの日に帰るということになっていたので、私もその流れに便乗したわけです。

お孫さんたちは今日からは父方の祖父母のもとに滞在するらしく、そこまでMさんが送っていくことになっているとのことでした。彼らにはクリスマスからしばらくの間お世話になったのでお見送りのために私も連れて行ってもらうことにしました。

おじいさんおばあさんは温和で素敵な方たちで、色々面白いお話を聞かせてくれました。彼らの家はその昔羊小屋だったものを改造したのもで、築100数年になるのだそうです。日本だったら地震でつぶれていてもおかしくないですね。

それから、おじいさんは鉄道模型が趣味のようで、屋根裏部屋に飾ってあるコレクションを見せてくださいました。予想以上に本格的なセットで、線路だけでなく家やトンネルといったものが一式揃ったジオラマのようなものでした。実際に走らせてくれましたが、なかなか迫力があります。

日本では鉄道模型というと、Nゲージのようなややお高い趣味という印象がありますが、ドイツでもそれは同様らしく、「この車両は300ユーロだったなぁ、こっちは250ユーロだったか...」と言った具合に空恐ろしくなるような金額とともにあれこれ紹介してくれました。

高校時代に鉄道大好きマンの友人がいたのですが、彼が言っていたことを思い出しました。曰く、「鉄道趣味というのは、文字通り『"金"を"失"う"道"』を究めるものだからね」だとか。納得。

記事を書きながらNゲージについて調べてみたのですが、これは国際規格らしいですね。ドイツ語では「Spur N」と呼ばれているのだそうです。私は鉄道に詳しくないので何とも言えませんが、鉄道趣味者は国際的に友人を作る話題としてNゲージを生かせそうです。
Mさん曰く、ドイツでは鉄道模型は高齢者の典型的な趣味の一つとされているということですので、ドイツに来る前に鉄道について調べておくとおじいちゃんたちと友達になれるかもしれませんよ!

というわけでお孫さんたちと別れた後は、私も片付けをしてMさん宅を去ることに。息子さんはボン在住ですので、そこまで一緒に帰ることにしたのです。
Mさんの住む村には駅はなく、長距離バスのバス停も隣町にしかなかったため、そこまでは送って行ってもらうことになりました。
Mさんにはお礼を言っても言い切れないくらいお世話になったのですが、かといって何かできることがあるわけでもないので単にご挨拶をしてお別れをするほかありませんでした。おかげさまで楽しい年末年始を過ごすことができました。ありがとうMさん!

さて、帰りはバスでコブレンツまで行き、そこから電車で帰ることになっていたのですが、計4時間ほどの長旅です。一人だったら退屈過ぎて参っていたかもしれませんが、今回は息子さんが一緒だったため助かりました。

色々面白い話をしたので書き留めておきます。

ドイツ人の表現について

日本人は婉曲的表現を好むとよく言われますが、日本のことにやたら詳しい息子さんはその辺のことも熟知しているのです。ドイツではそういう表現は一般的ではないようで、もっと直接的に物事を表現する傾向があるそうです(日本と比べたら大抵の国が直接的表現を好むといえるかもしれませんが)。
何か相手に対していいづらいことがあったとしても、気にすることなく直接相手に伝えるのがドイツ的お作法のようです。かといって、相手を傷つけるような言い方はしないとのことでしたが、日本人からしたらびっくりするようなこともあるかもね、とのことでした。
例として挙げられたのが、「相手の足が臭かった場合」だったのですが、具体的にどういう表現をするのかということはよく覚えていません。「君、足臭いよ」という程直球ではなかった気がしますが、なんだったか...

キリスト教的価値観と批判

Mさんは敬虔なクリスチャン...ということをどこかで書いた気がしますが、息子さんはクリスチャンではないのだそうです。生まれたときに洗礼を受けているとかそういう意味ではクリスチャンになるのかもしれませんが、聖書の勉強をしたり、熱心に信仰していたりとかそういうことは一切ないようで、本人の言によれば彼は「クリスチャンではない」とのことでした。
彼は大学で数学を勉強しているのだそうで、最近はその延長として論理学等々にも興味が湧いてきているのだそうです。それもあってか、彼は何でも自分で考え、結論を出すことを好む傾向があるのです。

彼曰く、キリスト教の教えの中には思考放棄を促す部分が多いのだそうで、彼はそういうところが好きになれないのだそうです。この話が面白くて妙に印象に残っているので、まとめてみようと思います。

1.戒律に関して

たとえば、十戒では「○○をしてはならない」という条項があれこれ述べられていますが、これの根拠は何なのか、と彼は考えるのだそうです。突き詰めると、熱心な信者は「ダメだからダメ」という根拠も何もない上に、自分で理由を考えることすらせずにルールを順守しようとする傾向があるのだそうで、これはちょっと馬鹿馬鹿しいのでは?と思ってしまうらしいです。「なぜ?」という疑問を殺してしまっていますし、全く論理的でないというわけですね。

2.人生観に関して

キリスト教的価値観の中には人生を前向きに生きるために有用なものもあります。何か悪いことがあれば「これも神の思し召し」で、何かいいことがあれば「これは神様のおかげ」と、考えるというのがそれです。
この考え方の根底には、「すべては万物の創造主、神の計画によって動いている」という信仰があり、それが真であるからこそ、すべての事象が神によって導かれているということになるわけです。
たとえば、就職活動に失敗したり、身内に不幸があったとしても「これは神が与えてくださった試練、何か大きな意味があるはず。最終的にはよりよい方向へ神が導いてくれる」という形でポジティブ変換スイッチが入り、何事も正面から受け止めて乗り越えることができるというわけです。
「ふふっ、これも(神の)計画通り」と一人ごちればあらゆる状況を乗り越えられるのです。最強です。
これはかなり実用的です。気持ちよく生きていくためにはこういう考え方もアリだとは思うのですが、息子さんは「実用的ではあるけれども、物事の原因・理由を考えることを放棄してしまっているからちょっと...」と感じてしまうのだとか。

3.神学教育に関して

さて、そんなクリティカルな考え方をする彼ですが、小・中学校(日本でいうところの)時代には必修授業として神学の授業を受講していました。「どうだったの?面白くなかったの?」と尋ねると「地獄しかなかった」と日本語で答えられました。これは、授業が退屈で地獄だった、という比喩ではなく、授業の中でのキリスト教的価値観は「○○をすると地獄に落ちる」とか、そういう形で何もかもが地獄に関連付けられていたということらしいのです。怖さや悲しさしか感じられなかったというのが彼の感想でした。
ただ、これも子供の教育に利用するというのであれば実用的な気もします。「悪い子は地獄に落ちる」という、ある種卑怯な論法ではありますが、子供に言うことを聞かせるにはこれで十分ではないでしょうか。幼稚園児や小学生が「ならば地獄の存在を証明して見せよ」とか言うとは思えませんし。

4.信仰と科学

彼から聞いた話で、自分で調べたわけではないので詳細は分からないのですが、昔こんなことがあったそうです。
ある科学者が、教義に反する発見をしてしまった。彼は科学の進歩と自身の信仰とを秤にかけた結果、信仰のためにその発見をなかったことすることにした。
本当?と疑ってしまうような話ですが、それくらい信仰というものが重く考えられているのだそうです。
精神衛生上信仰が救いになる場合も多々あるのでしょうが、こういう場面で科学・人類の文明の発展を妨げることすらある...というのが彼の持論だそうです。

5.一神教であること

教義には論理的でない部分もあるということでしたが、それでも教義は教義です。絶対的な神によってこれは約束されています。ですから、それを破る者、あるいはそれに反対する異教徒は絶対的な神の敵であり、討ち滅ぼさねばなりません。いざ、十字軍!
というような風潮がいまだにキリスト教には残っているらしく(上記の文は誇張していますが)、「異論は認めん!(ただし根拠はない)」という姿勢が息子さんにとっては納得いかないということです。なんというか...冷静になったら負けですね。


西洋と日本の大きな違いの一つとして、この宗教的価値観というものは外すことができないでしょう。てっきり、西洋人は皆熱心なクリスチャンだと考えていたのですが、どうも彼の話を聞くとそうでもないようです。

ちなみに最近話題に登場しませんが、Jくん(スロヴァキアの彼)ともキリスト教に関して話を聞いたことがありました。
彼は、「熱心な信者は神が世界を作ったという話を本気で信じているんだよ。進化論を否定するのも、立場上仕方なく...というわけではなく、心から否定しているのさ。」という話をしてくれました。彼もあまり神学の講義は好きではなかったそうで、それもあって熱心に信仰しているわけではないらしく「まぁでも、僕に言わせれば世界を作ったのは宇宙人だけどね。」などと言っていました。
「あ、それヒストリーチャンネルで見た!」と言ったら「そう!Ancient Alienね。アレの方がよっぽど納得できるわ。」と冗談めかして語ってくれましたが、そんなわけで最近の若者たちにとってキリスト教的価値観はそぐわなくなってきているのかもしれません。

といっても、たった二人から聞いた話から結論付けられることは何もないのですが、それでも私にとっては十分新しい発見でした。


以下、そんな話を聞いて考えたこと。(妄想)

日本を出る前に、所属する研究室の先生にご挨拶にいったのですが、その際に「向こうの人たちにはキリスト教的価値観が根付いていて、非常にカラッとしている。日本のようにジメジメしていない。」という話を聞きました。どういうことだろう...と思っていたのですが、Mさんに会って何となくわかった気がします。何事もポジティブに受け止め、きれいに消化していく。これは2で紹介した価値観に基づく心理だと思いますが、確かにカラッとしているという表現がしっくりきます。

日本人の中にも、何事も前向きに消化できる人はいるとは思いますが、その手法が共通認識として誰にでも備わっているわけではありません。宗教として万民にその価値観が行き渡っていれば、全体の傾向としてもっとカラッとしていてもおかしくはないでしょう。

国民に共通の価値観が根付いているというのは何か羨ましい響きがあります。日本にも何かそういうものがあるのかもしれませんが、どうなんでしょうか。集団主義文化を持つ国と言いつつも、価値観は多種多様で、下手をしたら西洋よりも個人主義が根付いていたりするのでは?なんて思ってしまいます。

今や、インターネットとサブカルチャーのおかげ?で、趣味・主義は多種多様に分化しています。特に日本はオタク文化のおかげで、趣味の分野は体系化不可能なほどに細分化しているのではないでしょうか。

インターネットを利用することで、変わった趣味を持った者同士でも比較的容易につながりを持つことができ、そしてどんどん深みにはまっていくことができます。

そうなってくると、"万民の共通認識"よりも自分の中の世界観、自身の所属する文化圏の共通認識の方が重要になってくるのではないでしょうか。所属するグループの中で認められるためには、当たり障りない世界基準よりも、所属グループ内部での共通認識に重きが置かれるはずです。
すると、そういった独特のルール・主義を持った小さなグループが乱立し、国民全体としての統一感は薄れていきます。

現代日本人すべてが共通認識として持っている価値観なんてあるのでしょうか。集団主義文化といっても全体主義文化ではありません。いくつもの小さな集団の価値観が重視され、全体としての共通認識など存在しなくなってしまっているのではないでしょうか。むしろ、個人主義文化の根付いた西洋の方が万民の共通認識としてのキリスト教が存在している分、団結しやすかったりするのでは?

しかし、そのキリスト教も大して効力を発揮しなくなってきているとしたら、科学・論理が宗教に取って代わったりするのでしょうか。気楽に生きていくためには、ある程度の思考放棄が許容されてもいいような気もしますが、その辺も人それぞれでしょう。

よりよく生きていくための方法として宗教を利用し、神を信じる(あるいは信じていることにする)というのは極めて実用的です。それが行き過ぎて異教徒を虐げ出したりしたら問題ですが、各々が幸せに暮らすために宗教が利用されていったら、仮に論理的でないにしても存在意義はあるのではないでしょうか。

4で出た例のように、宗教とその他の価値観が対立する場合は問題がややこしいですが、もう少し宗教をゆるく考えることができれば両立も可能なのではないかと思います。

あくまで人生をよりよく生きるためのハウツーとして宗教を利用できないものでしょうか。しかし、神が絶対的でなければ自分に対する救いを心から信じることができないわけで、そういった意味ではゆるい宗教というのはもはや宗教ではないのかもしれません。

かといって、盲信しかないというのでは救いがないような気もします。一体宗教とはなんなのか...

日本人も無宗教面をしながらなんだかんだで神様の存在を信じていたりするような気がしますが、キリスト教的絶対的価値観を貫いているわけではありません。神仏習合しちゃったり、800万柱もいるといわれていたり、多神教として寛容であることがその理由だと思いますが、この宗教観は生きるために役立っているのでしょうか。

たとえば、お正月に初詣に行くことが心が救われる人っているのでしょうか?重病の身内がいた際に「神様助けて!」とお願いはできても、それだけです。その願いが叶わなかった際に「これも神の思し召し」というようなポジティブ変換スイッチは作動しないのではないでしょうか。あの神はダメだ。別の神に頼むべきだった。今度から別の神社に行こう。とか罰当たりなことを言い出してしまいそうです。

唯一絶対の神が存在するという利点はまさにこれでしょう。あの神様が間違えるはずはない、これにもすべて理由があるはずだ!と思い込むこと、これが救いになるのです。個人を救うのは、やはり盲信なのかもしれません。

論理的でないということを理由に批判することはできますが、論理的でないからこそ"信じる"ということになるような気もしてきました。
論理的であれば信じる必要はないのです。証明されていれば納得するのみなのです。しかし、単に納得するだけではやってられないこともあるのでしょう。
「はい、この人は死にました。もう終わりです。」と言われて、「あ、はい。どうも。」とはならないように、どこかで救いを求めたくなってしまうのでしょう。そこで論理とかそういうものにはすべて目を瞑り、信じ込むわけです。



少し話は変わりますが、私は盲信というといつも"結婚"をイメージします。結婚は完全に論理を超越しています。身近なところに存在している盲信の一例です。

結婚して子供を育てて家族に看取られて死ぬのが"普通の幸せ"だなんて言う人もいますが、本当にそうでしょうか。

結婚するということは今後の自分の人生に対して一つの制約を設けることになります。配偶者となったその人と、一生お互いの人生に対する責任を共有し、ともに暮らすというルールを自分に対して設けるわけです。このシステムから幸せが導かれる根拠はあるのでしょうか。
私はないと思います。

理由1:結婚した時点での自分と、今後の自分は別人である
人間は成長とともに考え方や物の感じ方が変化していきます。また、外見も老いとともに変化します。これは誰にとっても言えることでしょう。中身も見た目も不変のものではありません。
以前法学の授業を受講した際に、「人は自分で望んだとしても誰かの奴隷になることはできない。なぜなら、それは将来の自分の自由を剥奪することになるからだ。将来の自分の人格というものを別で考えなければならない。」というような話を聞きました。
これは結婚にもあてはめられるのではないでしょうか。今の時点でこの人と結婚しようと思っているとしても、将来の自分が同じことを望み続けているなんて保証はどこにもありません。完全に賭けです。ギャンブルです。

理由2:結婚した時点での相手と、今後の相手は別人である
時々、「結婚する前はこんなじゃなかった。結婚してからまるで別人のようだ。だまされた。」などと、結婚してからの相手の変わりようを愚痴のように話す人がいますが、だまされたも何も人の性格が変わるのは当然であって、そういった諸々を含めて相手と一蓮托生の関係を望んだ当人の責任であるはずです。
自分の性格が固定されていないように、相手の性格も固定されているはずがありません。結婚するということは、そういった不確定要素諸々を含めてすべてを引き受けるという契約を結ぶということであるはずです。不確定要素(自分)×不確定要素(相手)=結婚なのです。


というわけで、ここには確定的な要素は一切ない。なんとなく華やかな印象から幸せだと思われがちですが、どう考えてもギャンブルです。なぜこんな危険なことに身を投じる人が多いのかというと、これも盲信が理由なのではないでしょうか。
「これが幸せに違いない!今後の人生は幸せに満ち溢れたものになる!」と周囲の人間、当人たちが強く思い込むことによってかろうじてなりたっている恐ろしいギャンブルです。
しかし、思い込んでいる当人たちが幸せならば誰も文句はつけられません。結局これも思い込みの力です。
目を瞑っているから幸せなのです。宗教も結婚も、冷静になって考えたら負けです。とにかく信じることです。されば救われん。



というわけで、今回は電波回でした。友人相手に電波を飛ばすのが私の趣味なのですが、こちらに来てから電波を飛ばせる友人がまだできていないため、耐えきれずにブログで飛ばすことにしました。まさに電波。
もっと人類のアセンションとかUMAとか、何の役にも立たない話をしたいのですが、残念なことに昨年末は地球滅亡論にも事欠き、今年も特にそういった話題がないのがさびしい限りです。次地球が滅亡するのは2020年だったかしら。
せっかくならドイツ語で電波を飛ばせるレベルにまで至りたいものです。

ちなみに電波といっても、これも留学してドイツ人から宗教観に関する話を聞いた結果考えたことなので、一つの思考記録として書き残しているのであって、別にふざけ倒しているわけではありません。ご了承ください。