238日目(5月26日 月) ベルリン市内観光
ベルリン市内観光
ILAの三日間はあっという間に過ぎ去ってしまいました。主目標はこれで果たすことが出来たのですが、ベルリンを訪れるのはこれが初めてでしたので、せっかくの機会ということでもう少し観光していくつもりで、この日もベルリンに滞在することにしていました。
ベルリンは記念碑、博物館、史跡等々の見どころにあふれています。見てみたい施設は山ほどあったのですが、今回市内観光に自由に使うことができるのはこの一日だけですので、あまり欲張らず下見程度のつもりでざっくり観光するつもりでした。
まずは昨晩訪れたソ連軍の顕彰碑を再訪。そこからブランデンブルク門を抜けて、さらにウンターデンリンデンを歩き抜ける予定です。
▲立派な施設です
▲裏側から見た図
記念碑に刻まれた文字はすべてロシア語なので内容はさっぱり理解できませんが、ここには"カピタン ヴォロンコフ"とか"ロイテナント イヴァノフ"とか書いてあるっぽいので、おそらく兵士の階級と名前ではないかと思います。
上の戦車のマークは部隊章の類でしょうか。
ちなみに施設の裏側にドイツ語も併記された解説パネルがありました。先を急いでいたため、写真だけとって読まずに出てきてしまいました。
▲T-34と雀
なんかこういうのいいですよね
▲続いてブランデンブルク門から徒歩3分の「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」(パンフレットにもとづく正式名称)
夕方訪れたときとは異なった光景に驚かされました。
この石はすべてが記念碑の一部なのですが、その上に座って談笑している人たち、石の隙間を利用して鬼ごっこ、かくれんぼをしている子供たち、さらには石の上を飛び跳ねて遊んでいる若者までおり、まるで公園のような雰囲気です。
「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」の名が示す通り、これはいわば死を象徴した施設なわけですが、どうにもそういった負のオーラや重苦しさを感じません。
もしこれが日本であれば、施設内は"聖域"のように扱われているのではないでしょうか。
私語厳禁はもちろんのこと、死を象徴する記念碑に対する敬意を示す意からこの石に対しても安易に触れてはならなかったりしてもよさそうなものです。ところが、ここにはそういった厳粛さは一切存在せず、それどころかある種の居心地の良い休憩所のように利用されているではありませんか。神聖不可侵といった印象とは無縁の存在のように感じました。
この石は本当にただの石で、そこに犠牲者の名前が刻まれているわけでもなく、また虐殺されたユダヤ人に関する情報が示されたパネル等が設置されているわけでもありません。本当にただ石が並んでいるだけなのです。
また、周囲には飲食店やディスコのような店も並んでおり、夜になればそういった騒音も聞こえてきてしまいます。これには衝撃でした。これでいいのか!?と思うと同時に、むしろこれくらい特殊性が排除された、人々に近しい存在であった方が記念碑としては有効なのかもしれないとも思いました。
扱っているテーマは深刻なものですが、その深刻さが前面に出てしまいすぎると、そもそも誰も近寄りたがらないのではないかと思います。それでは過去を記憶するための装置としての記念碑の役割を果たさないどころか、むしろ過去を忘却することを助長しかねません。
あえて公園のようなオープンな場として人々にとって開かれた場所であることによって、過去の記憶との共生関係を築くことができるのかもしれません。そこにいる人々は、その並んだ石が虐殺されたユダヤ人の記念碑であることを知らないわけではないのです。知っているけれども、必要以上の畏敬の念やや恐怖に囚われていないだけなのではないかと思います。
また、扱われているテーマに関する詳細な情報提供が軽視されているわけではありません。それに関しては、この記念碑の地下に位置する情報センターにて、パネル展示・情報端末によるデータ開示・関連書籍の販売が行われています。
つまり、人目につきやすい部分とつきにくい部分とである程度の住み分けがなされているのです。
開かれた場には象徴としての石碑が、そして地下にはより詳細な情報センターが置かれ、それら双方が連携して"記念施設"としての一つの役割を果たしているということです。
(ちなみに、地下の情報センターは月曜休館で、この日は訪れることができませんでした。後日訪れることになるのですが、それはまた別のお話し。)
以上、私の勝手な想像でした。
ちなみに、後になって施設の利用規則?のようなものが書かれたプレートを発見しました。
▲曰く...
1.記念碑エリアへの立ち入りは自己判断にて行うこと。
2.記念碑エリア内では、走らずゆっくり見学すること。車椅子等の利用者に関しては、専用通路が用意されている。
3.以下のことは禁止されている。
・あらゆる類の騒音行為
・石碑を飛び渡る行為
・犬、その他のペットの連れ込み
・自転車やそれに類するものの持ち込み、駐車
・喫煙、飲酒行為
石の上を飛び跳ねて遊んでいた若者は完全にアウトでした。
近所のディスコ?から流れる騒音は記念碑内で発生させているわけではないからセーフ?
子供の鬼ごっこやかくれんぼはアウト?
記念碑の上に座っての歓談はセーフっぽいですが、どうなんでしょうか。
騒音、喫煙、飲酒が禁止されているのは、死者への敬意を払うという目的からの規則でしょうか。その他はマナーに類するもののようです。
公園ほど自由な場所ではないようですが、それでも私の感覚ではかなり自由な施設に感じられました。
ちなみに...
▲石碑は背が高いものも多く、その隙間に立つと身長175前後の私の目線からでもこんな感じです。
もし私が小学生の時分に訪れていたら、間違いなくかくれんぼをしていました。これについては確信を持って言えます。
さて、長くなりましたが今日の観光はまだ始まったばかり。
ここから再度ブランデンブルク門方面へ向かい、ウンターデンリンデンを東進します。
フンボルト大学を横目に見ながら、続いてたどり着いたのは「ノイエ・ヴァッヘ」。
▲左手に見える建物がそれ
▲建物内部にはぽつんと"死んだ息子を抱く母"の像が立っています
像の前には「戦争と暴力支配の犠牲者に」と碑文が刻まれています
▲外には各国語による解説パネルが設置されており、日本語もありました
上記パネルにて説明されているように、この施設は「ドイツ連邦中央慰霊館」という性格を持っています。先ほどは被害者がユダヤ人に限定されていましたが、こちらは戦争と暴力支配の犠牲者すべてが追悼の対象とされています。
東西統一後、正式な中央追悼施設を持たなかったドイツが、東ドイツ時代には当時の政府によってファシズムとの戦いを強調した慰霊館として利用されていたこの施設を生まれ変わらせました。
日本でいえば千鳥ヶ淵のようなものでしょうか。どうなんでしょう。
戦争と暴力支配の犠牲者という言葉は、被害者だけでなく、加害者という側面をもった兵士たちをも指します。この辺りのことでかなり論争が起きたようですが、最終的に中央慰霊施設をここノイエ・ヴァッヘとし、それ以外の戦争被害者たちには個別に慰霊碑・記念碑を建てることで決着したようです。
その一つが先ほどのユダヤ人の記念碑で、それ以外にもシンティ・ロマを対象としたもの、同性愛者を対象としたものなどが、ブランデンブルク門付近にそれぞれ設置されています。
戦争責任や加害・被害の問題は日本でもドイツでも一筋縄にはいかない問題のようです。
ノイエ・ヴァッヘから更に少し東へ進むと、博物館島と呼ばれる、博物館が乱立した中州に出ます。そこを横切って対岸へ渡ってすぐのところに「DDR(東ドイツ)博物館」があります。続いてこちらを訪れました。
ちなみに、博物館島は観光客であふれかえっており、またそれと同時に観光客を狙った「お金くださいおばさん」にもあふれていました。
まず「英語分かりますか?」と話しかけられます。「少しなら」と答えてしまうと、いきなり紙片を渡されます。そこには、哀れな母親がドイツに渡ってきたものの仕事も見つからず、二人の子供に食べさせるものにも困っているという何とも悲しいお話しが手書きの文字でつづられています。本当かどうかは定かではないのですが、だから小銭をくださいというわけです。
断れる雰囲気ではなかったので、ポケットに入っていた小銭を渡すことにし、ちょうど手元にあった2ユーロを差し出したところ「あぁ、これでは足りません」と値上げされました。えぇ!?と思いつつも、今さらどうするわけにもいかず、値上げに応じてさらに1ユーロ渡してしまいました。
そのおば様と別れてしばらくすると、今度は別のおば様が走ってくるではありませんか。ほとんど同じやり口で3ユーロ払うことになってしまいました。
絶対あんたたち結託してただろっ!
「あっちにチョロイ観光客がおるで!」とか情報共有しとったんだろ!と思いましたが、しつこく言い寄られて払ってしまいました。6ユーロあればそこそこな昼食が取れたのに...。地元では30~50セント単位の話だったのに、首都にきた途端これです。しかも、「恵んでください」からの「これでは足りない!」という値上げ要求をしてくる食い下がりっぷりには驚かされました。これが観光地クオリティか...!!皆さんも気を付けましょう。日本語しかわからないという体を貫き、適当に日本語で対応することをお勧めします。
さて、話がそれましたが、DDR博物館に話を戻しましょう。
▲DDR国章の説明
この博物館は、DDR時代の人々の生活に焦点を当てた博物館で、他の博物館と比較するとやや小さめの見やすい博物館です。かなりじっくり見ても2時間くらいあれば一通り見られるのではないでしょうか。
当時の生活用品、学校教育、政治状況などが、それぞれ実物・パネル展示により解説されています。
▲シュタージによる尋問体験コーナー
この椅子に座ると証明に直に照らされ、何ともいえない居心地の悪さを味わうことができます。
また、この博物館の隣にはDDR時代の料理を提供するという面白いコンセプトのレストランが併設されており、博物館の入場券を持っていると若干の割引料金で料理を提供してもらうことができます。
▲何か典型的な料理が食べたい とお勧めしてもらった料理たち
ビールはおいしく、写真上のパイもまたおいしかったのですが、問題は右手に見えるピクルスです。
『グッバイ、レーニン!』でもこのピクルスの瓶を探しているシーンがあり、非常に有名な品らしいのですが、これがもう何とも酸味が強いのです。味を中和するためか甘い味のソースが添えられているのですが、そんなものではごまかしきれない酸っぱさ。歯にしみるほどの酸味でした。これが...東の味だというのか...!?
ところで、DDR博物館を訪れた裏の理由は、東独時代のCDを探すためでした。私はロシア民謡・軍歌がドイツのそれにも増して大好きなのですが、東独時代にはロシアの民謡・軍歌がドイツ語翻訳されてあれこれ歌われていたらしいのです。
例えばこんな感じで。
「В путь」
ドイツ語歌唱版↓
"Let's go" - V put' (в путь) in german - Nationale ...
元ネタ(ロシア語歌唱版)はこちら↓。
В ПУТЬ(In the march) - YouTube
ロシアの曲調にドイツ語歌唱なんてもう無敵じゃあありませんか!
いや、ロシア語の響きもとても美しいのですが、この曲はドイツ語版の歌唱もマッチしています。
もしそんな類のCDが売られていたらぜひとも手に入れたかったのですが、見越しがはずれました。当時のポップス音楽関連のCDなどは売られていたのですが...。
▲教科書(地球の歩き方)に載っていた東ドイツグッズ専門店「Ost Paket」も訪れてみましたが、やはりミリタリッシュな音楽CDは扱われていませんでした。
一体web上にアップロードしている方たちはどこからドイツ語歌唱版の音源を仕入れているのでしょう。何か良い市場を知っている方がいらっしゃいましたら是非とも教えてください。
仕方なくFDJ(Freie Deutsche Jugend)のCDを購入しました。これはこれで収穫ですが、なんだか不完全燃焼でした。
(後日、ボンのHaus der Geschichteにて、よりCDのラインナップが充実していることを発見。軍歌は少ないですが、東独関連音源も充実していました。灯台下暗し!)
と、気が付いたらウンターデンリンデンを歩き通していました。ついでに時間も程よく過ぎ去り、Wuppertalへ帰る時間になってしまいました。長いようで短かった初ベルリン4日間はこうして終わったのでした。ちゃんちゃん。